Swarm survives, continuing having me and release me.
Media Art Perforance
2011. 5/14,15
数えられない記憶が未来空間を告げている。
私がここを離れても。
音と記憶のセッション。
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Sound Swarm × Performance
たくさんのサウンドファイルが、まるで生き物のように、自律的に相互作用しながら群れを作り、仮想空間を動き回る。そんなシステム、Sound Swarmにはある種の意識が芽生える。この作品はSound Swarmの意識を構築し、その意識と遊ぼうとするものだ。
リアルタイムに録音されたサウンドが次々と群れに参入し、分裂し進化する。古いサウンドファイルは古い記憶であり、新しいサ
ウンドファイルは新しい記憶である。古い記憶が新しい記憶と交わって変容してゆく。したがって群れは様々な時の記憶の集合体であり、それはどこか遠い場所
の、誰かの記憶や風景でもある。
パフォーマンスプロジェクトには、観客が自分でシステムの中を歩き回るのとは違う Sound Swarmの経験のされ方に誘う力がある。
Sound Swarmの作る群れに、パフォーマーが過去の問いに答える声、新たに紡がれる音楽、身体のしぐさによって参入していくことで、Sound Swarm とセッションする。それは、記憶が記憶を呼び起こし、自らの身体運動によって記憶を変遷させていくダイナミックな構造だ。やがて、そこにあった記憶の集団は変化し、なにかパフォーマーそれ自身の形を帯びてくるだろう。こうして、パフォーマンスは音とドキュメンタリー文学の二つの顔を持った「現実と架空がつかず離れずする意識の世界」の渦中へ観客が分けいっていく手伝いをする。そのとき、いまここにいる観客自身も入り込んだ、けれど、私と離れても生き延び続けていく記憶が生まれている。
畢竟、私たちの意識とは、世界を眺める記憶の束である。私たちはその空間に佇んでむことで、イマココにしか生まれない誰かの意識にアクセスできるはずである。
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『群れがいきのびている。私を抱えて、離れて』
科学には強い科学と弱い科学というものがあると思う。強い弱いは良い悪いではない。
強い科学とは、生き残るためのサバイバルの科学であり、弱い科学とは、平和共存とコミュニケーションの科学だ。
アメリカは強い科学を促進する代表であり、日本は弱い科学の代表だ。その違いについて考えさせられたのも、この3.11の震災が契機となっている。
いまこの時にアートには何を期待するのか。 アートにもそうした弱い/強いの区別はあるのか。それを作品の中で問うていく。
そもそもぼくはアートとサイエンスに違いはないと思っているし、弱い科学こそ本質的に強いものだと思っている。長い時間で見た時に見えてくる強い科学。それこそが目指すアートである。
今回の河村美雪と大谷能生とのアートパフォーマンスは、時間と意識と記憶に関するものである。人の意識や記憶は、1000億の神経細胞の活動の上に成立している。
しかし、人の記憶は、コンピュータの「メモリー」とは大きく異なっている。
コンピュータの記憶は、ひとつひとつラベルをつけられてしまわれ、いつでもどれでも呼び出せる。これに対し、人の記憶は、どうもお互いに「独立ではない」。つまり、
記憶は別の記憶と相互に関係し合い、変遷し、動き回る。
そもそも、人の記憶とは、例えば「青い手帳」を「青い手帳」としてそのまま記憶する訳ではない。
人の記憶は、コピーではなく創造的な行為であり、たくさんの記憶の運動がそこにはある。
そして、この関係し動き回り変遷する記憶の束のことをわたしたちは「意識」という。覚える、忘れる、思い出す。
どれもコンピュータにはないものだ。 それらはどうして脳に生じるのか。それを司る意識が、記憶の運動そのものとしたならば、「記憶の運動」はなにを覚えて忘れて思い出す?
この作品は、現在の脳のモデルではまだまだ解くことの出来ない記憶の運動性を、3次元のサウンドシステムの運動としてつくり出す。
ここで体験するのは自律的に運動するシステムだ。
最初にスタートボタンを押したらもう自動的に動き続ける。たくさんのサウンドファイルが、自律的に相互作用しながら群れを作り、仮想空間を動き回るのだ。
古いサウンドファイルは古い記憶であり、新しいサウンドファイルは新しい記憶である。古い記憶や新しい記憶と交わって変容してゆく。
あるサウンドファイルは思い出され(われわれの耳に聞こえ)、あるサウンドファイルはそこにあるだけで思い出されない(われわれの耳には聞こえない)が、全体の記憶の運動をつくり出すのに寄与している。
記憶は決して呼び起こされない記憶と連動して自律的に変容する。この部屋の中に座ることで、様々な時の記憶の集合体はすでに観客を巻き込んでいる。
われわれはすでに群れの一部であり、だから記憶の群れはどこか遠い場所の、誰かの記憶や風景でもあると同時に、自分自身のつくったものでもある。
あるいは来るべき未来の記憶でもある。そういう記憶のつらなりを、わたしたちは主観的な時間の流れと呼ぶ。
河村美雪と大谷能生は、自らの言葉と動きと会話、演奏によってその群れに参加し、時間の系列をつくり出す。彼らの動きは、記憶の運動を変遷させることのできる別な仕組みである。
記憶の集団は変化し、やがてこの空間はパフォーマーそれ自身の意識の形を帯びてくるに違いない。
畢竟、われわれの意識とは、世界を眺める記憶の束である。われわれは記憶の運動を体験することで、そのシステムが持つ意識にアクセスし、観客の記憶もまた少し配置を変える。
その僅かな配置換えこそが、この作品から観客へのフィードバックである。 (池上高志)
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出演:大谷能生、河村美雪、Sound Swarm
Sound Swarm Direction by 池上高志
Programming 大海悠太、松本昭彦、丸山典宏
音響 半澤公一(innovation)
制作 渡辺タケシ(ふつうの人新聞)
協力:大海研究室(東京工芸大学)、ペンと点(東京造形大学)、㈱ BF.REC、FOSTEX COMPANY
主催:池上研究室(東京大学)× CS-Lab(東京造形大学)